昭和51年9月24日 朝の御理解 ●② 大坪かよこ
御理解第17節
神の綱が切れたというが、神は切らぬ。氏子から切るな。
昨日は、秋の御霊祭りがあのように盛大におかげを頂きましたが、ま、一年一年ほんとのことが分ってくると申しますか、御霊祭りの内容が変わってきたことです。
慰霊祭が、感謝と慰霊のお祭り、先祖に対するところの感謝の念を真に現わして、ああいう御祭が仕えられる、同時に又、日ごろは気の毒な状態にある御霊様たちに対する、せめて今日一日だけでも、と、このお慰め申し上げる、といったようなお祭り、そういう御霊祭りの性格というようなものも段々変ってまいります。
ま、大変おかげを頂いて、で、結局どういうことかというと、御霊たちでも、もう自分はもう、ここから助かることはできないんだと決め切っておる、いうなら暗黒の世界に住むことがもう当たり前になってしまっておるという御霊たちがあることですよね。
助かろうと意欲を持たない。確かにあの世は、もう確かに暗黒の世の中、こちらで信心の徳を頂いて、信心の喜びを持って、いわゆる信心の光を持って行かなければ、とても立ち行くことのでけないほどしの所。
それが、いうならもう自分たちは当然地獄に行くはずだと、ともう思いもう諦めておるような御霊たちがです、縁につながって、たとえばあの、昨日あたりのような晴れがましい場にも出らしてもろうて、おかげが頂けれる。
そして御教えを御霊ながらにも頂いて、はあ、これは自分たちでも精進一つでは助かるぞ、金光大神の縁につながっておるから、なら、金光大神の世界、金光大神お取次下をさるところのでけれる世界にあるのだから、これからお取次ぎ頂いて、御霊ながらの助かりを得ようと意欲を燃やす御霊も沢山あったに違いありません。
ね、けども、私は地獄へ行くとが当たり前、もうあの世で悪かこつばかりして来とるとじゃから、もうこれしょうがないというて諦めておるような御霊です。いわゆる、神からはこれは、生きておる人間だけではありません。
ね、魂の世界に入っておるのでもです、その非を悔い改めて、本気ですがろう、助かろうという、私は願いを持たなければ、助かりようはない。この世でもあの世でも、理屈は同じことです、ね。
昨日は、伊万里の竹内家もみんな参ってきておりましたが、先生は東京へ出張中でしたから、その帰りに、お祭りには間に合われませんでしたけれど、その、お説教の時分だったでしたでしょうか、帰って見えられて、あのお祭りにあわれたわけですけれども、ね、昨日は、先日から、あれは国体というですか、佐賀であのあれが、体育大会がございましたですね。
もう前々からお届けがしてございましたですけれども、今度皇太子ご夫妻が佐賀に見える.そして、もうこれは極秘の中に進められたことだそうですけれども、伊万里にま、お忍びの形でお見えるということが、早くから連絡が、だからこれは極秘ですから、もう神様だけへのお取次ぎさせていただいとった。
もうほんとに、あの、その日はだいたい雨と言っておったんだそうですけれども、もう、お天候の上にもそれこそ降らず照らずのお繰り合わせを頂いて、もう万事万端の上にご都合お繰り合わせを頂いた。
もう気やすうにお話しかけ下さって、もう先生のことですから、もうどんな説明でもできんことはなかったらしいですけれども、なんかお寿司を召し上がるときに、あの、皇族方とかああいうお偉い方は、そのお寿司でもね、生のお寿司を召し上がることはできないそうですね。ところがその伊万里には、お忍びで見えとるのですから、何をさし上げても良いわけです。だから、まあ、活きの良い魚で作ったにぎりを差し上げた。
したところが、これは何という魚ですか、これは何という魚ですか、と聞かれるげなけれど、さあ、それが、ちゅうてから、それだけにはもう頭かいた、といったようなことを言っておられましたけれども、そん時にあの、お茶を差し上げられた。
ほりゃもう、あの、柿右衛門の見事なお茶碗でご夫妻が召し上がられたという茶碗を、これはもう合楽教会にお供えさせて頂こうというて昨日持って見えとられました。
こりゃそればってん、あーた、竹内家の宝にせにゃんごとあるとじゃけんで、もうお返しすると私が言うて、あの二階に来られましたから、持って行きましたけれど、いや、自分の方にはあの、紅茶を差し上げた、だから紅茶茶碗があるから、それを私の方は頂いて、お茶のお茶碗だけを、あのこちらにお供えさせて頂きたい。
もうそりゃほんとに、見事な茶碗、ご夫妻がご使用になったというのを、ま、そんなふうで頂きました。
ね、私はやっぱりいくらどんな偉い人でもです、ね、お忍びができるおかげを頂かなければ、できるようなおかげを頂かなければ、息がつまると思うですね。
人間でも、なら、私どもでもそうです。ね、たまには誰も知らんお忍びがあってもいいと思うです。ね、だから、自分はこういうことをお忍び、忍びしよるから、もう自分のごとあるものは、とても助かるきるめ、自分のごとあるもんな、おかげ頂ききるめ、そういう思いが、神からは切らん、自氏子から切るなと仰るのはそこなんです。
ね、いつもかつもお忍びではいけませんけれどもね。
先日、先生、もう、私はもうほんともう、先生にもお約束して、神様にもお約束してほんとに、もう、泣こうごと残念だと、とても私ごとあるとは、おかげ頂ききるめち、その、言われるわけです。ほんのこつの、もうたったそんくらいなこつがどうしてできんのち私は言いましたけれど、その人にとっては、難しいことなんですよ。
そのことを神様にお詫びさせて頂きよりましたら、ここ十日ばかり前から、これは私が植えさしたんですけども、泉水の向こうにちょっと小山のようになって、向こうが笹やぶのようになとるところがあります。その笹やぶの根方に、私があの彼岸花ですね、いわゆるまんじゅしゃげ、この辺では赤子華とこう申します。もうほんとに、赤子華ていうが、てき、ふさわしいように何とはなしに毒々しいね、畦道にずらーっと咲いとるなら、もうムッとするごとある感じの花ですけれども、ね、笹やぶのかげに一株私が植えさせておるのが、毎年咲きます。
私、いま、茶の間で御食事させてもらいますが、もう、お食事のたんびんに言うんです。ね、良かろうがの、て、竹藪、笹やぶの陰に真っ赤な花が、一株咲いておる、もうよかろうがの、毎朝私が申します。というほどしの良いです。
ね、だからもう合楽では、いわゆる彼岸花でも、いまの花に見ておられると皆さんが言われますが、またほんとにいいです。
もうあそこに座って、あの、青い、いわゆるそのつつじとか、笹やぶのようなところの、その、陰に半分は隠れたようにしてです、ね、その、まんじゅしゃげが咲いておる、真っ赤に咲いておる、というなら、もう、こちらから見てとても印象的です、庭が。
皆さんも一辺泉水の向こうですから、泉水んところまで行かれると、見えますから、なるほどまんじゅしゃげでもいいなと思われるだろうと思いますがね。
そのまんじゅしゃげを頂くんです。ね、なるほど、たくさんそれがこう畦道に咲いておるのがは、それこそ、ま、いやらしい感じが致しますけれども、それこそ蔭にひっそりと、ね、藪の陰に咲いておるまんじゅしゃげは、大変いうならば、いまの時分の、ま、ひとつの季節感といったようなものが庭にあってね、とても風情のあるもんです。
ね、だからそのことを私は聞いてもらいました。ね、それがだぶだぶするようにあっったんでは、ね、いけないけれども、ね、また失敗しましたといったようなことであるならばです、それはむしろ人間らしい、可愛らしい、それでいて精進させて頂こうという、そういう私でも、神様がおかばい下さって、勿体ないということになれば、それはおかげにつながるのですけれども、ね、私のようにこんくらいな事も改まりきらんものは、とてもおかげは頂ききるまいと、ね、そういう心が、神の綱を切ったり、神の綱を外すのと同じことになるのです。
これももう前でしたけれども、ほんとにもう、自分のような汚いものがというてもう嘆かれた方がありました。ところがその人は、おかげは頂くんですよ。
人からはやっぱ信者同士からもあんまり、その、ま、敬遠されなさるような感じの人ですけれども、したらそん時に私が頂きますことがですね、●② あの、雉の雌鳥を頂きました。
雉というとか、山鳥というのはあの、雄はあのもう見事に美しいでしょう。
ね、こうきれいな色とりどりの羽をこう持って、実に見事です。
けれどもそれは生みなすことができません。雉の雌鳥ちゃ、ほんとにあの、ま、見苦しい感じしとりますよね。いうならば汚らしい感じです。ね、けれどもね、あんたが自分で自分を汚いことを自覚して、神様にお詫びをして、しかも、こういう汚い私、こういうずるい私、だからお詫びの印にというて、その信心がでけるおかげであなたの信心が進んでいきよる、あんたがおかげ頂きよるとは、だから生みなすことがでけて行きよるのですよ、というてお取次ぎさせて頂き、ほんとこの神様は大きい。
ね、清らかなところには魚は住まない。かえって、薄濁りのような所に魚が住むような道理であります。
信心しとるから清らかな水のようにというばっかりで、ということはそれはできる人もあるかも知れんけれど、これは私を先として、でけることではありません。
そこにいわば、人間らしい、神様が成長して見えるわけなんです。
ね、昔頂いた御教えの中に、桃の花、鯉住む池や、うす濁り、という御理解を頂いたことがあります。桃の花、鯉住む池や、うす濁り、と。鯉が住むのは、うす濁りの所の方がいいのであり、ね、桃の花であり、鯉住むであり、ね、そういうたとえばほんとに、自分のような汚らしいことばっかりしておるような人間が、神様の前には近付かれない、それでも縋らなければおられん、願わなければおられない、というなら自分の汚さに辟易するようにあるその心を詫びの心が誰よりもひとしお強い、そこにお徳が受けられる、ね、鯉住むということは、ね、お徳が受けられる。やはりうす濁りの自覚、汚い自覚、に立たせて頂いたときに、ね、そのいうならばお詫びの印という、普通ではでけない修行がでけるのです。
だから徳を受けるのです、ね。だから自分のようなものは、とても神様の前に出られん、というて、自分から神の綱を外したり切るようなことを、では、いけないということです。
神様とのつながりというものは実に微妙、このくらいデリケートなものはない。
ね、この頃からも、何かの時に話したましたように、ね、ある修行生の方と、お徳の高い先生との問答です。先生が大変大事にしておられたものを割ってしもうた。
ね、それこそ、もうそれこそ青うなるようにびっくりしたわけ。
ね、だから、どうも先生済みません、とお詫びしとったら、お前不調法だから、こりゃもう、俺のもう大事なもんだったのに、と言われるところでしょうけれども、その修行生の方は、利口というわけではないでしょうけれども、ね、も、思わず割らせて頂きましたというてお届けをした。割らせて頂いたつなら怒るわけにもいかんね、と仰ったということです。
同じ事柄でも、怒られなければならない、のと、ね、許される、その心の状態というもののそのデリケートさというものを、感じるでしょうが。
ね、ここでは馬のお知らせは卑しい心と頂いております。ね、馬を二匹合わせるとうまうま、ある先生が参って見えて、あ、あるご信者さんが、ある教会に参りよって、それから近くに教会があったのでそこにこんだ、お参りを変えた。そこで参りよった、一番初めの所の先生が、えらい腹かきなさってから、あんた道を間違えとる、遠かったちゃ、私がたで一番初め助かったちゃから、私げに参ってこにゃ、とうとうお祭りの時に、そこん先生ともう討論までしなさった。
ね、あんたうちん信者を取ったの、取らんのといったようなことからだったでしょう。
だからなかに入った信者さんは、もうどっち付きようもなしに、当時の椛目に参って見えた。ね、そしたらそん時に馬ば二匹頂いたんです。
ね、信者一人、自分のうまうまに、自分の生活に関わるんです、どっちん先生でも。
だからうちの信者じゃ、さ、それは、取ったの取られたのといったような、ことになったというのです。そして結局は、現在合楽で、今でもずっと参って見えられる。もう両方ながらやめなさった。・・・?なっておられる。
ね、いうならば、ほんとに人が助かることさえできれば、でなくて先生同士が自分の上の、たとえばお店でいうなら、売り上げに関わる、生活に関わるから、信者を取ったの取られたのといったようなそれは、うまうまに関わるから、と以来この馬のお知らせを、ね、卑しい心だというふうに頂いております。
けれども、なら私どもの心の中にもです、その卑しい心がね、あります。だからこそです、普通では通れない馬に乗ってでなからなければ通り抜けられないところがあるということなんです。天地につながる大道というのは、一直線にまっすぐいという道ではありません。
場合には曲がりくねっております。
ね、山坂もありゃ、藪の中を分けて通らなければならんところもありますけれども、ね、普通では通られない。もうとにかく、自分な悪いことせんけんで、というてま、いうならば、清らかなつもりで、ね、昔戦時中にある弁護士さんが人を裁かなければならないほどしの職の人ですから、ね、闇なんかは絶対しないというて、栄養失調になって亡くなった弁護士さんがありましたよね。闇をすることが、そんなに悪いことだろうか、ね、金光様の信心はそうところはもう実に、教祖金光大神様は素晴らしい広い、もうほんとに生身をもっとる人間がさせて頂く信心だということを、いろんな場合、今日皆さんにいろんな例をいくつも聞いてもらいましたがね、そういうものを持ちながらも、そういうものを自分でも辟易するものを感じながらもです、ね、おかげの頂けていけれる道が私は、金光道だというふうに思います。
ね、それこそ、誰にも知られず、ね、それこそこっそりとお忍びでといったようなこともです、ね、またあって、私は良いと思う。自分なこんな内緒ごとしよるから、も、自分なごとあるものは助からん、自分のごとあるとはおかげ頂ききらんはず、ともう自分でおかげ頂ききらんはずと決めるといったような心こそがです、神の綱を外すようなものなんです。ね、そこでなら、そういう自覚に立って、ならそれで良いというのじゃない。そこでならお詫びの印とか、それでもお役に立ちたいの一念は誰よりも強いというような生き方をさせて頂くところからです、普通の、いわば、清らかな人では頂けない、ますぐい人では、ね、助かりようもないようなところを助かる、より助かることのできれる道が開けてくるのです。
ね、普通ではとても通れない、ね、自分な悪いことせんけん、信心せんでん、というような人達があります。ね、悪いことなら悪いことの自覚に立って、そこを普通ではできない、けれどもお詫びの印にと、たとえば思う時にです、普通のもんができないような修行がでけて、ね、お徳を受けていくということがでけれる道なんです。
ね、神の綱を、が切れたというが、神は切らんと仰るのですから、ならどういう悪人だからというてです、お前ごたあるとはもう助からんと仰るのじゃないというのです。
悪人の自覚に立ってです、ね、自分のようなものでもおかげを頂かなければという、私は頂き方というものが、でけるときに、神からは切らん、いわゆるおかげの綱、お徳を頂かれる綱というものは、ね、そういう悪人の上んでも、頂き進めて行くことができるのが、お道の信心だと、ね、いうことを今日は、ま、いろんな角度から、いろんな例を持って聞いて頂きました。どうぞ。